たぶん今日から夏だ。
北上川では川くだりをしていたようだし、
あさってからはさんさもはじまる。
これから何をしていくか、何をしていくべきか、
じっくり考えられる夏にできればと思う。
(17:34修正)
何がかわって、何がかわっていないのか、
何を書くべきで、何を書くべきではないのか、
よくわからないでいます。
今の状況にまだ戸惑いがあり、
もうしばらく留守にすることにします。
きっと、たぶんそれほど遠くない時期に
再び書きはじめるときには、
普通にはじめることになると思います。
そのときはまたよろしく。
よく言われることだと思うけれど、
ひとつのことを考え続けるのにはとても忍耐力(あるいは体力)がいる。
卒論などで一つのテーマをやり続けることの
いや、そもそも学問の意義の一つも、
考え続けることの、(けっこうキツイ)体験にあると思う。
んで。
『国家の品格』についての評価はあいかわらずペンディングだけれど、
ひとつ心に残るのは、
日常的な出来事について論理的に考えることにはイミがないという主張。
前提が正しくない可能性もあるし、なにより論理の各ステップの
つながりが100%正しい(数学のように)はずがないということ。
だから論理の鎖が長くなるほど、論理展開の正しさは減衰する。
結局、直感や感情による結論を、正当化しているだけにすぎない。
か。
ドキリとした。
たしかにそういうことも多いかもしれない。
もちろん、私だって素人ではない。
あえて別の結論に至るような論理をたててみる、とか
場合によっては、最初の結論を捨てる、
ということは、心がけるし、実行もするけれど。
とくに年のせいか、思考体力の衰えを感じるようなとき、
この「正当化」の戒めはきつく響く。
「あーまたズルしようとしてる。」
そして、この戒めはへたをするとネガティブに働きかねない。
「論理的に考えたってむだなんじゃないか?」
っていう方向。(この本の危険な理由の一つ。)
この言葉、きっとこれからずっと引っかかっていくんだろうな。
どうつきあっていけばよいか。
いつか、なにも考えなくなるんだろうか。
(修正:23:05ころ)
木曜日くらいまで、しっかり梅雨っぽい天気が
続いていたけれど、昨日や今日もちょっと、晴れ間が。
この時期、こういう日は、
けっこうさっぱりしていて、気持ちよかったりする。
金曜はすこし仕事を早めに切り上げて、ぶらっと買い物に出た。
そして、まだ明るさが残る頃、バスにのって帰る。
夕焼けがたいへんきれい。
すがすがしい。
その買い物では、『せかちゅー』が文庫化されていて、
ついつい購入してしまった。
いまさらだけど&ずっとなんとなく敬遠していたのだが。
自分自身にドラマや映画のイメージが付きすぎてしまっているのが
ちょっと気になるが、改めて文章を読んでみようと思う。
阿部寛のドラマが、ちょっと気になる。
コンビニで、カードをもっているかときかれ、
もっていない
いうときの演技がよい。
40歳の誕生日か。
あーあ。
ずいぶん更新を怠ってしまった。
ちょっとブランクをあけると、
なにか憑き物が落ちた感じで、
まあ書かなくてもいいかという
意識が働くようになる。
それでいいような、こわいような。
1年と9ヶ月。
ちょっと信じられないくらい長く続いている。
万が一、私が世紀の大発見をしたり、
小説かいたらトンでもなくうれちゃったり、
すごい宝物を発見したり、
スカウトされて俳優デビューしたり、
ものすごく悪いことをしてしまったり、
未来を予言できたり、
なんと世界をすくってしまったりして、
有名人になるようなことがあったら、
死んだ後にでもこのブログも歴史的な視点から
分析される対象になるのだろうか?
・・・。
えー。
空想するのは自由である。
どんなふうによまれるのだろう?
誤字脱字が多いことのほかには、特筆すべきことはあまりない
とかいう評価になっちゃうのかね?やっぱり。
でも、1年9ヶ月というと、たぶん人生の
すくなくとも50分の1くらいになっているはずで、
またこれまで生きてきた時間に比すれば、
1/22.2272くらいには相当する。
5%ですよ。あなた。
その間、私の見たこと、私のまわりでおきたこと、
感じたこと、考えたこと、いろんなことが刻まれて、
ここにはある。
(一部はmixi。)
1/60億のありふれた生だけれど、
茂木さん風にいえば、
偶有性にみちた1回性の出来事の連続だ。
だからどうということはないのだけれど。
なんとなく、自己満足。
(修正 19:07)