存在が消滅するということは
やはり理解できないことだ。
そして、いまの自分が、本当の時間の中で本当に存在している
ということも同じように理解できないことだ。
かりそめ?
改めて書くまでもないことだけれど。
記憶が積み重なる。
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今のこの作業にエネルギーを費やすこと。
それが、どのような帰結をもたらすのか、
その延長上にどこまで可能性が存在しているのか、
実際のところよく分からない。
よく分かるはずもない。
長期的な行く末など見る能力をもたないから。
でも昔から、殆どの人間はそういう風にしてきたのだと思う。
ごくごく一部の人だけが、本当の意味で賢く、
先をただしく見据えることができたのじゃないか。
多くの人のあがきの集積としての歴史。
きっとそんなものなのだろう。
今朝、ふとそうおもった。
だから、
できることをする、
というのはきっと悪いことではないに違いない。
(次の日見ると、「だから」という接続詞はへんだ。)
それは分担作業なのですよ。
蟻的。
ただし、モティベーションのあり方として、
自分のためだけにというのはダメだ。
自分を満足させるという要素はもちろん入り込むけれど、
それだけではダメだ。
という、覚書き。
まあ、そんな大げさなことでは
全然ないんだけれど。
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なんてことを、書いてみたい日。
(修正7/13 12:00頃、後半消そうかとおもったけれど。)