随分と長い間ご無沙汰していました。
卒論も提出し、これからは残りの学生生活をお金と時間が許す限り、
日々短距離走者のような気持ちで楽しむ所存です。
今日のテーマは「相手を思う」。
みなさんは高校生の時に倫理の時間に、キリストと孔子、どちらに賛同する?
といった話をされた覚えがないだろうか。
キリストは「自分がされてうれしいと思うことを、相手にもしてあげなさい」と説いた。
対して、孔子は「自分がされて嫌なことは、相手にもしてはいけない」と説いた。
今日まで、そしてこれからも僕は孔子派である。
うれしいと思うことは、人それぞれ違うのではないだろうか?
趣味がいい例だ。「僕はプロレスが大好きだ!だから愛しのあの娘に
アントニオ猪木の詩集『馬鹿になれ』を贈ろう!!」なんてことになった場合、
稀有な女性は喜ぶだろうけど、まずギャグととられるか、
「馬鹿にしてんの?!」と怒られてしまうこと請け合いだろう。
道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ!といった慰めの言葉を贈る。
おそらく、キリストは直接的にこう述べたわけではないのだろうが、
思想として、価値観としてこのように思っていたことが
「自分がされてうれしいと思うことを、相手にもしてあげなさい」
という端的な言葉で表されているのだろう。
何が気にかかるって、「相手の立場に立っていない」ことが気にかかるのだ。
その点、孔子の教えは相手の立場に立っている。すなわち、相手を思っている。
「自分がされて嫌なことは、相手にもしてはいけない」
相手を思わなければ、自分にとっては嫌なことでも相手には平気でするのではないだろうか。
空手をやっていた時のこと。
寸止めではなくフルコンタクトの流派だったから、
スパーリングや試合ではメット、グローブ、スネあて、急所ガードと
文字通りフル装備して本気で殴り合い、蹴り合う。
上段蹴りをモロに頭にくらい、脳震盪を起こした。
中段突きをどてっ腹にくらい、息ができなくなった。
急所を見事に蹴られ、この世のものとは思えない痛みに苦悶の表情を浮かべた、友達がいた。
痛みを知っているから、相手には優しくなれる。
昨今のニュースを見るにつけ、痛みを知らない人が増えたような気がしてならない。
体の痛み、心の痛み。
人がもう少し人を思えるようになったら
思った分、世の中は捨てたもんじゃなくなるのでは・・・。
どうだろう?