五月晴れだ。
みどりと夕焼けがきれいでここちよい。
今週は、いまひとつ授業が不調だったなあ。
(すくなくともしゃべる自分で感じる限りは。
受け取られ方はまた違うのでしょう。
こっちがいいとおもってもだめなことはおおいし。)
どのようなコンディションで授業をすればベストなのか?
いまだに完全には体得できない。
睡眠時間や体調ももちろん関係するが、
やはり一番影響をあたえるのは、
準備状況と緊張度なんだと思う。
一番まずいのは、全然準備が足りないと感じていて、
当日、「やばいなぁ」とおもいつつやるとき。
(こんなことがあってはいけないのだ。さすがに最近
すくなくなりましたけど...
やっぱ慣れないときやどうにもならないときはね・・・ぇ。)
こういう準備不足なのは論外なのだけれど、
あまりに完璧に準備しすぎて、しかも
それが実際の授業のずいぶん前におわってしまって、
当日までに余裕がありすぎてるときはやっぱりだめな
ことがおおいと感ずる。
安心してしまうのだ。だから、すこし不安をもつくらいの
状態でいたほうがいいのかもしれない。
きっとこういう自分の調整の仕方とかって、
年齢によってもかわってくるんだろうな。
記憶力や体力などはおおいに関係しそう。
変わる自分にあわせていかなければいけないのか。
むむ。
あと25年後、わたくし授業できるのかしら。
でも、ほんとは
一応プロなら、こういう「うだうだ」をいうべきではないよな。
やっぱ。
授業に対する先生側からの熱心な気持ちが感じられる文ですね。今回の私のコメントでは学習者側からの授業中に最近実践していることについて書きたいと思います。
最近授業を受けていて授業中などで自分の気になるところを積極的に質問するようにしている。授業外に質問することはあったが、授業中にしたほうが自分自身にとってメリットとなる部分が多々あることに気づいたからだ。
まず一つにいい質問(あるいはいい意見)をすると先生−私の間にある種の満足感に似た雰囲気が漂う。それが非常に心地よい。
次に授業中に質問することで他の学生が触発され「それはどういうことか」「こうではないか」などの積極的意見が(多くはないが)生まれることがある。そのような意見が実は非常に傾聴に値する話であったりするし、なにより、先生−私の間に生まれた満足感が先生ー私ー他の学生に広まるのを感じるのがうれしい。
最後に授業というオフィシャルな場で発言するためには常に緊張感を保っていなければならない。この緊張感の維持により授業中”眠い”と思わなくなるし、なにより授業が面白いと感じるようになる。
しかし、なんでも質問のために手を上げればいいというものではない。いい質問や意見は部分で生まれるものではなく、全体の話の流れや前後の文脈をくんだ上で(時には先生自身のフィールドを理解した上で(実はこれが非常に重要だったりする))言わなくてはならない。そうでないと場の満足感は生まれない。また、いい質問(意見)をいうためには自分自身授業外で知識を取り入れなければならないし、自らの論理性にも磨きをかけなければならないのだろう。
上記に「場の満足感」と記したがこれはいい授業を行う上でも非常に重要なものなのではないかと思っている。この満足感を得んがために教師、学習者がともに高めあっていけば非常にいい授業が成立するのではないだろうか。
最近、電子黒板というものがあるらしい。学生は授業にPCを持ってくる。黒板と個々のユーザーのPCはイントラネットでつながっている。授業中わからないことがあるとユーザーはPCを使い質問し、その質問は黒板に表示され教師は適宜それを確認し質問に答える。このようなシステムで確かに授業中「質問する」行為は増すそうではあるが果たして効果的であるのか。あるいは授業中の電子を通しての質問と通さない質問は等価であると考えられるのか。何かそぎ落ちてはいないか、考えさせられる
補足::実はいい質問をすればなんでも授業が面白いと感じるようになるわけではない。自分の話していることに一貫性(論理性)のない先生や周辺的な知識が(あるいは自分の教えている分野の知識でさえも)足りない先生、知識を詰め込んでこそ何ぼという先生は面白い(知的好奇心)を感じることは少ない。
補足の補足::しかし、最近思うのは知識の足りない先生や話の一貫性のない先生でも(特に前者は)適切にその先生の興味関心にあった質問をすると思いもかけず満足感が生まれることがある。したがって、学習者の意識としては常に耐えざる(自分がいい質問ができないのだという)謙虚さを失ってはならないだろうと自戒の念をこめて一筆記しておく。
補足の補足の補足::ただ、知識の詰め込みに重きを置いている人はどういうアプローチをしても深さを引き出せない(と思ってしまう)。授業中に質問することを厭う先生は多くの場合この種の先生である。(以下個人的不満)彼らの多くは授業にはプリントに(膨大な)穴空きの欄があり、授業を聞きながらその穴空きの欄を埋めるよう指示する(あるいは板書を熱心に書く)。生徒はテストでいい点を取るため無心に穴を埋める。しかし、「穴を埋める」という作業は「授業中に思考する」という動作と対立する。
Kさんのコメントを拝見しました。ここに書き込むのは初めてです。コメントに対するコメントなのですが・・・
大変熱心に授業に取り組んでいらっしゃる方だと感じました。毎度の授業に充実感を感じておられるだろうと思います。文体を拝見したところ、もしかすると私より年長の方かもしれませんし、差し出がましく意見をするつもりはないのですが・・・
板書を熱心にお書きになる先生が、必ずしも知識の詰め込みに重きをおいているわけではないと私は思います。板書は基本的知識であり、それを知らないことには話が進まない、または肝要なことが伝わらないために敢えて書いていらっしゃるという場合もあるのではないかと思いました。つまり、板書を沢山書かれるけれど、それが最終的な目的ではないというケースです。(あくまで一つの事例です)
Kさんの取っている講義と私の取っていた講義が同じとは限りませんので、話が行き違いになる可能性も大いにあるのですが、私の知っているとある先生は結構な量の板書を書かれる方でした。それが知識の詰め込みかと言われれば、必ずしもそうではなかったのです。大量の板書を通じて私が学んだものは、まず当然ですが、Kさんのおっしゃるような基本的知識。これ自体も大変貴重なものでしたが、しかしそれより肝心なのは、物の見方、考え方といった方法論でした。講義で扱うのは一つのテーマですが、テーマが異なる場合でも方法論をマスターすれば通じます。ノートを一見するとただの知識の羅列ですが、実は一貫して筋が通っている、知識の裏側には一筋の道が見えるようでした。道、というのは抽象的な言い方ではありますが、これこそがその講義の本質だったのではないかと今は思っています。
穴埋め形式の講義には出た事がないので分かりません。ただ、作業と思考が対立するのでしたら、思考を授業後に回し、次週にでも質問なさっても良いと思います。
感じ方は様々ですので、こういう場合もある、というように読んでいただければ何よりです。
kamijyouさん、貴重なご意見いただきどうもありがとうございました。
実は私自身、最後の部分はいささか個人的な感情で突っ走ってしまったと反省している次第であります。過去受けてきた授業を考えてみましても板書を多くかかれる先生の中にも鳥肌の立つような授業もありましたし、非常に奥の深い授業もありました。
今回、私の53さんへのコメントは授業中の発言というテーマで書きました。そして、授業中のいい発言が(先生−私あるいは先生−私ー他の生徒という)場の満足感をうむという形でまとめたと思うのですが、このような書き方では(最後の補足の補足の補足により助長され)いささか誤解を生じさせてしまうのだと思います。本来であればもう少し大きな枠組みで前回のコメントを捉えなおす必要があるでしょう。それは「授業に関わるとは」という視点からのアプローチです。
この視点は「いい授業」について考える上で非常に重要だと思うのですがうまく考えがまとまりません。もう少し私の考えをまとめ、熟成させる必要があるように思います。しかし、いずれにしても「場の満足感」というのをキーワードにして読み解けないか、というのが私の今のスタンスです。
書きながら「場の満足感」という抽象的な言葉に対するより具体的な解説(定義づけ)が必要だと感じるのですが、本日の課題として残しておきたいと思います。
他の皆様からの意見もお寄せいただければ幸いです。未熟者でありますのでお見苦しい点、おかしな点などあるかと思いますがどうぞご指摘ください。
Kさん、kamijyoさん、ご意見ありがとうございます。
お二人とも実に真摯に授業について考えておられますね。たいへんうれしく感じるとともに、改めて襟元を正す思いです。
「いい授業とはどういう授業か?を考えること」
これはわたしにとってもやはり重大なテーマです。(当たり前・・・)
Kさんは、「いい授業」と「場」の関係について考えておられるのですね。
そして、授業を受ける側として、好ましい「場」の構築にいかに関わることができるかを考えている。
さらにそのための方法の一つが、授業中に「いい質問をすること」であるというわけですね。
(ここまで単純化な図式として受け取ってよいか微妙だけれど。)
すばらしいと思います。
「場」のあり方が、授業の良し悪しのすべてを決定するものではないかもしれませんが、やはり無視できない大きな要素としてあることは確かだと思う。
もしすべての学生さんがKさんと同じようなスタンスで授業に参加するようになれば、大学は間違いなく大きくかわるでしょう。
そして、Kさんも書いておられるように、「いい質問をする(つくる)」ことを常に心がけることは、場や授業をよくするだけでなく、それ行う個々人にとって、きわめて大きなトレーニングになるはずです。(もしかしたら授業で直接受け取る恩恵 よりも大きいかも・・)
さて、しかし一方で、授業をする側の我々としては、「場」の構築を受講者に完全にまかせるべきではやはりない。
受講者が主体的に参加できる「場」をいかにして作ることができるかを考えなければならない。これは、授業の準備の一部、というか、大きな部分としてあるのだと思っています。(たとえば、どこでどのように受講者に問いかけるか?を考えること。)
とくにゼミの準備とは、ほぼこのことを考えることにほかならない。
(ゼミや講義、そのほかの様々なタイプの授業をいっしょくたに論ずるのは危険ですね。Kさんやkamijyouさんのコメントは、おそらく通常型の講義についてのものだと思いますが。)
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ところで、板書についても話題になっていますが、わたしは授業の内容によって、板書をするかどうかは使い分けるべきだとおもっています。
一般的には、情報の伝達は、レジュメやプレゼンソフトなどを用いたほうが効率的に行われることが多いでしょう。
一度話を聞けばわかること、理解にそれほど深い思考を必要としない内容の場合は、主にこういった方法を利用すべきではないかと思う。
一方で、じっくり考えながらすこしづつ理解すべきような内容の場合に、板書というのは有効に使える方法なのではないかと思うのです。
(この図式もやはり単純化しすぎなのかもしれませんが・・・。)
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なんか長い割には、あまり内容のないコメントにってしまいました。本当は、「いい授業」と「大学で学ぶこと」の関連について書こうと思ったのですが、さらに長くなりそうだし、きょうはこれにて失礼することにします。