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May 24, 2005

2年ほど前に、あるいは2年ほど前から考えていたこと

一つ前のエントリにいただいたコメントに触発されて・・・

2年前に私が「基礎ゼミ」(1年入学後すぐに行われるゼミ。大学での学びの
導入を目的としています。そのときの私のゼミのテーマは「大学」)を担当した際、
講者におくったメールを引用してみたくなりました。
(全授業終了後、夏休み中の9月におくったメールです。)

かなり「あおくさい」、そして若干鼻に付く内容ですが、まあ、記録しておきたかったのだな
ということでお許しを。

自分自身、もう一歩バージョンアップしたいところですが、現段階ではこんなところです・・・。


------------------------------------
(前置きなど略)

◆でもまあ、とにかくこのゼミでまず伝えたかったことは、
 「問いは自分で作るものである」
 ということ。

 高校までの学習でも、問いが整理できないために、結果として
 「なんとなくわからない」、でも「何がわからないのかわからない」
 という経験をしたことがあったのではないかと思います。

 そして、これからは基本的には自分中心で学んでいかなくてはならない。
 そうでないとおそらくまったく面白くない。
 特にゼミや特別研究(卒論)ではそうだと思います。
 無理をしてでも問いを作ってみる。作った問いがだめなら違う形の問
 いにしてみる。面白くなりそうなら、じっくり考えたり、掘り下げて調べ
 てみる。
 こうして、問いを洗練させていくことがもっとも重要でかつ難しいこ
 との一つだと思います。
 (ベストな問いとは時と場合、内容にもよると思いますが、基本的
  には「考える意欲がわくこと」「論理的に考えられること」
  「具体的に調べることができること」などは重要な要素であると
  思います。)
 
◆問いがたてられるようになると何が嬉しいのか? 何の役にたつのか?
 そんなことできなくても、それぞれ楽しくやっていければいいじゃないか?
 別に研究者になろうと思っているわけでもないのだし。
 と考える人もいるかもしれません。
 
 少し上で、大学での勉強や研究を面白くするために、という趣旨のことを
 書きました。でももちろん、「問いをたてること」が重要なのは、勉強・研
 究においてだけの話ではないと僕は思っています。

 楽しくやっていけているときはよい。しかし、ときにわれわれの前には
 突如、巨大な問題が生じてくることがあります。このとき、状況分析、
 判断、選択がうまくできないと、おそろしくつらい思いをする可能性が
 ある。

 ともすると「だめだ!」と絶望しがちだけれども、単に絶望してもつら
 いだけです。なんとか少しでもその状況を変える糸口になるのは、「論
 理的な思考」なのではないか?それには、やはりまず問うべき問題をた
 てなければいけないのです。

 たとえば、個人的に非常につらい状況におちいってしまったとき、
 「なぜ私だけこんなにつらい思いをしなければならないのか?
  他の人はそんな思いをしていないのに。」
 と「思い」を抱くことがある。
 でも、これは問いの形になっていない。単に嘆いているだけです。
 このようなことを心の中で繰り返していても、「考える」ことは
 なかなかできないのではないか。

 「私の現状を特徴づけていること(要素)は何か?」
  といったあたりから考えはじめる。要素をリストアップしてみる。
 「どの要素が、私をもっとも苦しめているのか?」
 「いつからその問題が生じているか?」
 「どうすれば取り除くことができるか?」
 「その要因を取り除こうとすると、別のどんな問題が生じてきそうか?」
 「自分が今とりうる行動の選択肢は何か?」
 「その中で、どれがもっともハイリターン/ローリスクなのは?」
  などなど、こうして具体的に考えていくこと自体が、すでに状況を少しだけ
  変化させるのではないか。
   
 同様に
 ・選挙で誰を選ぶべきか?
 ・就職先はどこにするか?
 ・私は何をしたいのか?
 ・何でこんなにいろんなことにやる気がおきないのか?
 こういう問いの形では、あいまいすぎてそれ以上考えられなくなっている/考
 える気がうせてしまうのではないでしょうか?

 
◆すべてが論理的に考えられる/決着がつくことばかりでないことはもち
 ろんですが、生活していくうえでの少なくともひとつの知恵として、
 我々は「論理的な思考」力を身につけることができる。
 そしてこれは他の人とコミュニケーションをとる手段としても重要な技術です。
 そして、論理的に考えるためには、やはり明確に「問い」をたてることが
 重要なのだ。

 ちょっとくどいですね。


◆さて、「問いをたてること」以外に、このゼミでは、サブテーマとして、基
 礎的なスキルの面をとり上げました。特に
 ・文献検索法
 ・プレゼンテーション(レジュメの作成法・発表の仕方・論文の書き方)
 ・調査の難しさと面白さの実体験
 などについては、十分とはいえなかったかもしれませんが、盛り込むができ
 たのではないかと思います。

◆一方で、十分にとり上げることができなくて残念だったことは、
 「大学でどのように今後生活していくか」
 について皆さん自身に考える機会をもってもらうことでした。
 ・日本の大学はよくだめだとかいわれるけれども、
  どうしてだめだといわれいてるのか?
 ・実際、どうなのか?
 ・大学で学ぶことに価値はあるのか?ないのか?
 ・専門学校とは何が/どこが違うのか?
 ・これから3年半(もう3年半です!)でどんなことをすべきなのか?
 ・どうすれば楽しく過ごせるか?
 ・楽しければよいのか?
 (高校のおそらくは強烈であった日々と違って、けっこうたんたんと、
  かつあっというまにすぎていきますよ。)
 ・どんな風なスタイル・意識で大学に望めば充実するか?
 こうした点については、みんなで話し合う時間はありませんでしたが、
 文献紹介を相互にしあって各自本を読んでいた際に、少し考える機会を持てた
 人もいるでしょう。
 今後とも、もし機会があれば、ときどき「大学で何を学ぶかか?」的な本を読ん
 でみるとよいのではないでしょうか。4月にはよく本屋に並ぶしね。

 あ、それから人文社会科学部の「総合化」とか、
 それ以外にもこの大学・学部の特色などについても、もっとやりたかったなあ。
 まあ、これは少しづつみんなにもわかってき始めている部分も多い
 と思うし、これからもますます実感されていくと思いますが。

◆さて、最後に僕自身(もちろん、いろいろの人の考えを参考にしつつ)の考え。
 「大学で何を学ぶか?」

 僕は、大学での学びはいくつかのカテゴリに分類できるものだと考えています。

 1)知識を吸収すること
  これは基本的には高校までの学習と似ている。
  講義をきけば、あるいは本を読めばある程度の知識は吸収できる。
  え? ちょっと待てよ。
  それなら本を自分で読めば、別に講義に出る必要はないのでは?
  と思う人もいるかもしれない。それは半分は正しい。
  (十分な読書力があればの話。)
  でも、講義には
  ・1冊の本の紹介だけではなく、多くの書物の中から、本質を
   抜き出すような内容が語られる。
  ・難解な内容が、わかりやすく講義担当者の言葉で伝えなおされる。
  ・講義担当者の解釈が加味して語られる。
  ・一見関係がなさそうな文献や分野があることに気づかされる。
  ・ある専門分野の全体像・構造についてのヒントをもらえることがある。
  などのメリットがあると思う。
 (実際、ほとんどメリットのない講義もあるかもしれない。というか、たぶん
  あると思いますが。)
  ただし、この「知識の吸収」という面だけが、大学で教育をうけることの
  意味ではないと思う。

 2)「学ぶこと」を学ぶこと
  僕は、これがもっとも重要なものだと思っています。
  この中には、いろいろな要素が含まれます。
  ・独学で学んでいくことを定常的に行うためののコツ(心理面も含めて)
  ・どんなことが興味の対象になっているのか/なりうるのか?
  ・やはり「問い」をどのようにたてればよいか?
  ・論理的な思考法(これは1)にも含まれる。)
  ・他人とのコミュニケーション・ディスカッション能力。  
  ・他の人の考え方にふれること。
  ・自分の考えを相対化すること。客観的にとらえること。
  ・研究方法・調査方法
  ・アウトプットの仕方(論文・プレゼンテーション)
  こうしたことは、本を読んだり、講義を聞くことで一部吸収できるところも
  あるでしょうが、主体的に取り組むことによってはじめて身についてくると
  ころではないかと思います。
  (上記の中には、専門分野によって流儀・作法が異なる要素もあります。)
    
 3)「学問的な学びを日常生活に生かすこと」を学ぶこと
  内容的にはもう説明しなくてもいいと思います。ただ、2)が身につけば、
  それがすぐそのまま日常生活にいきるというものでもない。
  意識的にそれをいかそうとしてみることができるどうか?
  これがポイントのように思います。

◆以上、あくまで現在における個人的な考えです。いろいろと考えられるでしょう。
 そして、「学ぶこと以外」にも、もちろん、大学にはいろいろなイギがあろうと
 思いますが、これはみなさん自身で考えてみてください。

◆「大学で学ぶこと」に関して、一度じっくり考えて書きたいと
 思っていたのですが、なかなか時間をとることができないできました。
 これはですから第1稿です。まだまだ充分ではないと感じています。
 いつかより納得できるものができれば、またこのMLに投稿するかもしれません。


(以下略)
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[ 教員 ]
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投稿者 hsshp : May 24, 2005 11:28 PM | トラックバック
コメント

hsshpさんの意見も私のコメントを受けてのものでありますし、また私自身返してみたい内容ですのでこちらでもコメントさせていただきます。おそらく53さんの方のコメントと行く行くはかぶってくると思いますが。


まず、はじめにhsshpさんに質問しておきたいことがあります。上記の内容を実際の授業(ゼミ)のなかでどのように実践されていたのでしょうか。


私の想像では以下のような形を考えていました。具体的なテーマを先生が設定し学生に興味ある内容を選ばせる。その後、発表する順番を決め指定された日取りまでに自分(あるいはグループ)でまとめるように指示する。発表に際しては参加者に積極的に発言するよう奨励し、発言などがないときは名指しで指名する。


ゼミの雰囲気やMLの位置付け・学生の学期を終えての感想などとともに教えていただければ幸いです。

Posted by: K at May 25, 2005 10:26 AM

あ、ごめんなさい。
hsshpとわたしは同一人物です。
管理者モードで書き込んでしまいました。

ゼミの中身などについては
いずれまた報告します。

Posted by: 53 at May 25, 2005 02:21 PM

上記ゼミの概要報告をしますね。


2年前の話なので、若干不正確なところが
あるかもしれませんが、だいたい以下のように
すすめたと思います。
受講者は15名でした。


最初の2週間は自己PR。

つづいて前半は、知りたいことを見つけ、調べる
ことをテーマとしました。
まずみんなで、大学、あるいは大学生
に関してどんなことを知りたいかをどんどん
あげていきました。
そのなかから4つのテーマを選び、
受講者にも4つのグループにわかれて、
それぞれのテーマを担当してもらう
ことにしました。
選ばれたテーマは、たとえば、
人社の先生にはどんな人がいるかインタビュー)
とか大学生の経済状況調査など。

担当したグループには、それぞれアンケートや
インタビューを行ってもらい、結果をまとめて
発表してもらいました。

こういう発表をしてもらっている間に
「大学」「学ぶこと」などをテーマ
とする本を各自に課外時間に読んでもらい、
内容の簡単な紹介や主観的な評価を
メーリングリストによせてもらいました。
(1人あたりたしか3冊をノルマとしたかしら。)

上記のグループ発表が終了した時点で、
みんなからの報告をもとに、後半にゼミ
でとりあげる文献を合議の上、決定して
もらいました。

そしてのこりの期間は、その文献についての
ゼミ。結局選ばれた文献は私のコメントの影響
もあったのか『論文の教室』(戸田山和久著)
でしたが。


そんなこんなで、いろいろしているうちに
あっというまに期間終了。
若干消化不良の部分もあったかもしれないですね。


受講者の方が当時どうおもったか?
あるいは、いまどう思っているか?
については、ちゃんと聞いていないので
わかりません。
これをみている人いるかな。
いなそうだ・・・。

わたしとしてはちょっといろいろ
詰め込みすぎたかもしれないと
思っています。

Posted by: 53 at May 25, 2005 11:27 PM

53さんの教育に対する熱心さが伝わってきます。その思いに私のコメントが微力ながらお役に立てればと思いながらコメントを書きたいと思います。


まず、上記の「基礎ゼミ」で行われた53さんの授業についてですが、「問いを作る」という理念は賛成できます。大学一年の導入として考えるならば非常に意義深い形のゼミなのではないでしょうか。このゼミ自体ついてはあまり多くを言及する必要はないでしょう。


私としては「大学で何を学ぶのか」という3点が非常に興味深い。53さんはおそらくアカデミックな場で生きる自分の姿を演繹的に捉え、最も重要(メタ)な要素を取り出した上でそれを授業(ゼミ)に生かしたのでしょう(違ったらすいません)。


ここでの着目点は二つあります。「”学問的な学びを日常生活に生かす”は授業(ゼミ、講義など)という形式で学習可能なのか(=転移の問題)」、「大学での学びを通じて学習者自らが53さんの理念をからだで学びを覚えることは可能か(=身体化の問題)」という点です。


ここでは身体化、転移という問題に焦点化して話したいと思います。


まず身体化についてです。おそらく53さんの特に重要であると考える「学ぶことを学ぶ」というのは、ただ方法を頭で覚えればできるようになるというものではないでしょう。では他に何が必要なのかといえば「身体」に他ならないと考えます。つまり身体を介在さしてこそ「学ぶことを学ぶ」ことができると思うわけです。


では「身体を介在させる」とはどういうことかといえば徹底的に「学ぶ(=自らを問う)」しかないのでしょう。ここが難しいわけです。ここは(講義のように)教えることはできないのです。いくら先生側から「問いを持つことは大切だ」といっても学生がそれ(まさに)身をもって理解しなくては意味をなさないからです。


では、身をもって理解するとはどういうことか。以下核心部分に入っていきます。


単純なのですが、それは「こうなりたい」と学習者が思うことです。つまり価値観を学習者がある種の「憧れ」として受け入れる必要があるわけです。


このような「憧れ」を抱かせるためには教師は「学ぶ」ということについて言語による伝達という手段をとるのではなく、「ともに学ぶ」という必要があるのでしょう。なぜなら、共に学ぶ中で学習者は教師に自分にできないことをまざまざと見せ付けられ、何とかして追いつきたいという気持ちが起こる(と思われる)からです。このような視点から見えてくる教師像は教える存在としての教師ではなく共に学ぶ(苦闘する)先達としての存在である教師です(ちなみに、このような共に学ぶという関係性の中に「育てる」ということが立ち現れるのかも、なんて考えています)。


では、それが学校(大学)の中でどのように実行されるのか、を書こうと思ったのですがとりあえずここで一回きろうと思います。中途半端さが残るのですが思ったより疲れました(ここまで書くのに3時間!)。すいません

Posted by: K at May 27, 2005 01:22 PM

きわめて丁寧なコメントありがとうございます。
考えを進化させるためのきっかけにさせてもらえ
ればと思っています。

ただ、どのようなレスをつけたらいいのか、
まだ頭の中が整理できていません。
ちょっと書きなぐってみます。
(注)ほとんどうわごとになっており、自分でも
 ようわからんことになってます。どうぞ読み飛ば
 してください。)

我々教員の側はいかに1)2)3)の学びを提供す
ることができるのか?という問題です。

一般的にいって、教員にとっては
1)知識を吸収すること
ような学びの機会を提供することは比較的やりや
すいことでしょう。典型的には、「講義」という形が
とられるわけです。
(それにしてもなかなか思うようにいかない
&考えが足りないことも多々あるわけですが。)

一方で、
2)「学ぶこと」を学ぶこと
については、Kさんの言われるように、
「身体化」の側面が大きいでしょうね。
だから直接伝達することが難しいことも多いわけです。
それでも、すべてが暗黙的な知であるわけでは
ないから、言語化してその一部を伝えることや
ヒントを提供することは可能です。
また、より伝達が難しいことについては、たとえば
ゼミや研究といった形で「経験」の場を提供し、
それを支援するという形が基本的には有効だと
考えています。
そして、こういう経験を積む中で、学びのメタな
目標(本文の中で具体的にあげたようなこと)
を意識化してもらうことも重要なのでは
ないでしょうか?

さて、問題なのは
3)「学問的な学びを日常生活に活かすこと」を
学ぶこと
です。
これについては、教員側がどの程度
意図的に行えるのかどうか?
正直に言うと、今の私にはよくわかりません。
(そもそも大学の先生って、日常生活がうまく
できないひとって結構多いですよね。(笑)
もちろんわたしも(泣)。全然活かせてない。)

ただ、上でも述べていますが、
学問的な学びの経験を積む中で、これは日常
生活などにも結びつく経験なのだということを
学習者自身が意識しているかどうかはやはり
大きいような気がします。
とにかく学ぶことに精一杯で、余裕がない状態で
は、その経験の意味を深め、活かすことは
できにくいのではないか。

だから我々にできることの一つは、
「その学びが、より広がりと深みのある経験なのだということを具体的に感じられるようなヒントを出す」
ではないかとも思ったりします。

なんかあまりにも観念的・理論的にすぎますね。

なお、以上は、おそらくわたしが所属する
教育課程や分野にも大きく依存している
部分があると思います。

ここまで書いてきて、気づくことは
1)我々は自分のもっているもの(〜力>知識)
 を提供するだけなのか?
2)それは明らかに充分ではない。
 それでは縮小再生産になりかねない。
3)では自分が持てないものをいかに育むことが
 できるというのか?そんなことが可能なのか?
4)「偶然」にまかせるしかないのか?
 それともなんらかの形で意図的に取り組むこと
 ができることなのか
という問題です。

もちろん一つの答えは、集団的な「徒弟制度」
なのだと思います。
個々人にできることはきわめて限られている
からこそ、多くの人(教員・友人含めて)
と接し得る機会を提供するのですよね。
この多くの個性との接触経験が、学ぶ人自身の
個性とも融合する中で豊かな力が育くまれる
可能性がある。


でも、上の4)の問いは、「私のできること」に
ついても、たてることができるような気もする
のです。
(厳密にいうと上記2)で、縮小再生産に
 なることは少ないのかもしれない。
 学ぶ側には、常に個性があるのだから。)


もうやめますね。

Posted by: 53 at May 28, 2005 06:07 PM

返事が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。諸事情により、時間が取れませんでした。


まず、前回の私のコメントの反省から始めたいと思います。前回のコメントが非常に抽象的であり、具体的にどのような形で授業という形で実施していくのかという点が不十分であり、かえって53さんを困らせるようなことになってしまったのではないかと感じております。


具体化は私自身の課題であり、発展途上であります。まだまとまっていない現状でここに書き連ねることはこの場をカオス的な状況にしてしまう恐れがあります。


53さんの(27日の)コメントにレスポンスを返すためには、あるいはより豊かにしていくためには現実的に実行できそうな可能性を明確にしていく必要があるでしょう。そのためにはやはり具体化です。


このような点から私の考えを具体的な形にするためにしばらく時間をいただきたいと思います。


53さんとのここでの対話は私にとって非常に有意義なものでした。しかし、53さんの貴重なお時間を私のために相当使わせてしまったのではないかと反省しております。私の考えが浅いばかりにご迷惑をおかけしましたことをこの場を借りてお詫び申し上げます。また、貴重なコメントを下さいましてありがとうございました。


これからも「能動的学習者」という立場で53さん(もちろんほかの学生・教員の方々も含めて)の胸をお借りするときはあるかもしれませんがそのときはどうぞよろしくお願い申し上げます。

Posted by: K at June 9, 2005 11:36 AM

とんでもありません。
わたしのほうこそ、また考えるきっかけを
作っていただいたことに感謝いたしております。
(考えきるところまでいってませんが。(汗))


充分なレスポンスができずごめんなさい。
とくに前々回のKさんのコメントの内容を
充分ふまえることができませんでした。

今後とも、ぜひぜひ気軽に書き込んでください。
いつでも。
お待ちしてます!

Posted by: 53 at June 9, 2005 02:05 PM
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