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July 07, 2005

3ヶ月ぶり

こないだ、3月に卒業した卒業生が訪ねてきました。

3ヶ月ぶりにゆっくりしゃべれて楽しかった。
やはり去年ずいぶん議論したせいか、互いの間合いというか
テンポがよくわかっていて、かみ合せられる感じが気持ちよい。
大学院での研究の話を中心に話を聞かせてもらい、
思いつくままいいかげんなことをいいつつ、
こちらもいろいろと刺激をもらいました。

もちろん3ヶ月でぜんぜん違う人になったわけではないけれども、
新しい環境の中でいろいろな経験を積んでいるのだなぁ
というのが感じられて、それがなぜかちょっとうれしい感じ。


これからどう展開していくのか・・。
たのしみね。
本人にしてみればそんな悠長なこといってられないか。


(アップロード後、一部修正。)

[ 教員 ]
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投稿者 53 : July 7, 2005 11:37 PM | トラックバック
コメント

先日はお世話になりました。


久しぶりに岩手大学に帰ってみて諸先生方にお声をかけていただき、さまざまな意味で励まされているようなそんな気持ちがしました。


今回のコメントでは学部から院に移り、院生として学部生の私を振り返ってみたいと思います。


大学での私のフラストレーションの源泉は「授業」にありました。「この授業を受ける意味とは」と常に考えていました(その裏には授業を受ける意味を感じないという虚しさがあった)。もちろんすべての授業が意味を感じなかったとは言いません。しかし、ほとんど(九割五分ぐらい?)は感じなかったというのが事実です。


誤解を生じさせそうなので補足しておけば虚しさを感じたのは岩手大の先生方の授業が悪かったというわけではありません。他大学に移ってみて岩大の先生がいかに授業について時間を割いていらしたか痛いほど感じさせられます。

また、授業の意味を感じないと私自身が(明確に)感じるようになったのは高校生からです(高3の時の遅刻の数は120回!…だったかな?)。この意味でも授業の質が岩大は低いということでは決してなく、学校教育の本質への懐疑が私にはあるということがわかっていただけたらと思います。


//ここからが本題


ではなぜ虚しさを感じたのか。どうすれば虚しさを感じないような学びが可能だったのか…、これが私の研究を行う上での根っこにある疑問です。


学部生のときは疑問すら明確ではありませんでした。(授業は)「なんか違う」「とにかくやりたくない」そんな気持ちが先行していて、やりたいことを研究という土台に乗せたくても、乗らないというくやしさがありました。また、「学校(大学)を変えたい」といってみても、言ってみたとたん中身のない発言をしている自分に何度も「ダメだ」と思いました。


しかし、学部から院に移る過程でまた、院で思考を重ねる中で少しずつ方向性が見えてきました。
院は自分の完全に思っていたとおりの環境ではありません(そもそも研究を行う上での理想的環境とは一体?)。研究室の中では自分の意見を理解してくれなかったり、頭ごなしに否定されたり(時に怒り出されたり…楽しく行きましょうよ)。自分の立場を主張するのがつらいなー、と思うときもしばしば。


しかし、異質な環境は人間の進化にとっては本質なのかもしれないと思うのです。

このコメントで何を言いたいのか。


・自分の中にある違和感を言葉に表し(外在化)、さらにそれを自分で納得のいく形(研究課題)にするのはすごく大変(4年生の皆様、卒論ご苦労様です)。


・それでもあきらめずに問い続け、人と話し、時に紙に考えを書き記し、思考を重ねることが大切。問い続けていればコトバが近づいてくる。(でもこの過程ですごくへこむ。「はぁー、なに同じこと聞いてるんだよ俺」、とか「そんな研究とっくにやられているよ」とか。七転び八起きの精神が大切?)


・人間にとって(理想的)環境とは作られるものではなくて、作るものである(結局はポジティブシンキング・・・でもこの考えって重要だと思う。学びを考える上でもひょっとして決定的に重要なのでは)


何か書きながら誰を相手に書いているのか、何を目的に書いているのかわからなくなりました(blogに乗せるのにふさわしいいかどうかさえも)。

きっと、だれかには意味がある、そう自分に言い聞かせて「投稿」のボタンを押させていただきます


Posted by: take at July 9, 2005 01:15 PM
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