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January 31, 2005

ハウル

ようやく見ることができた。
ほんとは12月のハジメに休みをとって見るはずだったのに。

やはり宮崎アニメは、街、風景の描き方が上手い。風のニオイがする。
(←村上さんへのコメントと基本的にはいっしょ。ワンパターン。)

それとひとつひとつのキャラがつぼにはいりますよね。
ひん(?)と「そこもとは?」と低い声でたずねるマルクル(だっけ)が
たいへんかわいらしい。
こういうの全部彼だけで考えているんだろうか?
宮崎さん、おそらくもう60歳くらいのはずです。
もし彼だけで全部こうしたキャラを生み出しているすると驚くべきことだ。
感性が10〜30代(まぜてください)仕様になっているとしか考えられない。

まだ60歳という歳を迎えたことはないけれど、
そういう風に歳をとることはきっと可能なんだろうね。
やはりどのような環境で毎日を過ごすか、によって、
歳のとり方は全然違う。きっと顔だって違ってくる。

あんまり成長しないのもかなしいし、
退化するのは情けないけれど、
熟成しつつ、歳はゆっくりととりたいものです。

30年後、わたしはどんな顔になってるんだろ。


[ 教員 ]
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January 27, 2005

名前はまだない

ご存知の方も多いと思うのですが、ここのところ
6号館前では、すっかり2匹の猫がすみついております。
というか陣取っております。

2匹は、仲がよいような、そうでもないような
微妙な関係らしい。微妙に緊張感がはしっているところがよい。


それにしても、こいつらは我々をどの程度識別しているのでありましょうか?
すくなくとも某○○先生や数名の学生諸君については、
完全に理解しているようです。

わたしゃにぁ、あんまり見向きもしない。
意外とすきなんだけれどね。ねこ。


そろそろ、こいつらにもなまえがいる頃かしら?
(でも情を移しすぎるのも、ちょっと恐いような気もするけれど。)

[ 教員 ]
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January 24, 2005

ケンリツダイ

私、明らかにマイノリティーではありますが
ここに声高に「呼称ケンリツダイ宣言」をさせて頂きます。

岩手大学は「ガンダイ」と呼びます。
岩手県立大学は「ケンダイ」と呼びます。
岩手大学の近くにあるコンビニは「ガンスパ」や「ガンクス」と呼びます。
(英語を訳したような文章になってしまった)

ところで私、「ケンダイ」という呼称はいまだに好きになれません。
「語呂」という観点からすれば「ガンダイ」に似てるし
良いのですがそれでも何だか好きになれません。

きっと「県立大」の「立」が消えたところに違和感を感じるからでしょう。
何も「立」を省略してまで短くしなくていいんじゃないのか、と思うのです。

賛同はほとんど得られないと思います。
それでもいいんです、ここで主張できたから。

[ 学生 ]
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January 19, 2005

あと3日

卒論の締め切り、近づいてきましたね。

4年生がんばれ!
提出したあとのビールはうまいぞ。

[ 教員 ]
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January 15, 2005

すきい

岩手にいるのに、冬にスキーにいったり、温泉にいったり
小岩井雪祭りなどなど、冬のあそび、とんとしてないなぁ。
なかなか行く暇がない。

というより、「暇がない」とおもっている余裕のなさがいかせないのだ。

東京にいたときはわざわざ安比まで何泊かしにきてたりしたのですが。
いま考えるとすさまじいエネルギーと余裕だ。

えっとスキー何年してなかったかしら?
まあ、たいしてできないんだけどね。

「わたしをスキーにつれてって」とか、いまの大学生の
みなさんみてるんだろうか。
ともよさんにみんなやられたもんです。(←同い年だったりする)

[ 教員 ]
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January 13, 2005

入試シーズン

いよいよ入試シーズンに突入しますね。
もう一度入試やってみたいなあと思うことがあります。

受験生だったときはそんな余裕なくて、いっぱいいっぱいだったけれど...。
当事者でさえなければゲームとしてできる。

いま思うのは、受験勉強の仕方、へただったなあということ。
その結果か、大学受験では本当にいきたいとおもっていたところは
けっこう落とされました。
大学に受かるということだけを冷静に、かつ効率的に考えることができれば、
違った勉強の仕方になっていたのでしょう。
でもぜんぜんそういうことはできなかった。
それはそれでよかったとは思うし、結果的に唯一受かった大学で学んだことは
とっても大きかったと思う。

やはり受験の結果が自分の将来を大きく決定するという意識だけが
とても強くて、まわりがよく見えていなかった。
たとえばどのように大学を選ぶべきかについても、よくわかっていなかった。
結局偏差値が高い大学がいい大学だとか、そういう大学に
入ることが「自分の才能を証明すること」だとおもっていた。
ありがちでかっこわるいなあと思う。

でもこれって高校生ぐらいだとしょうがないのかもしれないですね。

いまこれだけ大学に長くいると、いろいろ見えてきます。
すくなくとも偏差値が高い大学=いい大学という単純な図式で
ないことだけはあきらかです。

一つ思うのは、「どのようにすれば、そこで学ぶより多くの人に、よかった
と思ってもらえるか?」を考えている人が多いところは、比較的よいところで
ある可能性が高いということ。(誰にとっても「よい」ということはあり得ないが。)

私自身も常に考えていきたいと思うし、考えた結果を実践したいと思う。
うまくいかないときもままあるけれど。
これはわりと素直な気持ちです。
けっこうまじめだなあ。

(1/12一部修正しました。)

[ 教員 ]
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January 07, 2005

気になる本−5−

 今年最初に読んだのは、ただいまときの人となっている

齋藤孝さんの書いた『コミュニケーション力』(岩波新書)。

 どうも私には、あんまり売れている人、あんまりドンドン本を書いている人の本は
読む気がしないという、良いのか悪いのかわからない癖があります。この齋藤さん
についても同様で、手をつけていなかったのでありますが、この本はなかなか面白かった。

・コミュニケーション力の基本は「文脈力」、いわば、やり取りされている内容の
 構造を常に把握しながらコミュニケーションを展開する能力にある
・コミュニケーションを支える基盤は、体全体という意味での「身体」である
あたりをベースとして、コミュニケーション能力を高めるための訓練法や指導法
について、いろいろと提案してくれてます。ゼミなどで試したくなるものが多い。

 その具体的な方法の中で、とくに面白かったのは「メタ・ディスカッション」というもの。
あるグループがディスカッションをしている光景を、別のメンバーが「上から眺め」つつ、
ディスカッションの流れ(文脈)をつかみ、評価を行う、そして後にその評価を公表するというもの。
ときどき、下と上のメンバーを交代することも効果的ということだ。これ、そのうちやってみよう!
 また議論を行う際に、相対的な位置関係、空間の利用法が大きく議論の内容に影響し、
したがってそのデザインセンスが問われるという考えについても、とても共感できる。

 うん。おもしろい。この人の本、いろいろ読んでみることにしよう。

 コミュニケーションはやはり楽しみのもとだ。いろいろなコミュニケーションの形があるので、
別にみんなが同じようなスタイルでやりとりしあう必要はない。(そうだとまた気持ち悪いし、
面白みもへるだろう。) けれど、いざというときにいろいろなプロトコルを利用して、いろいろな
人とふれあうことができるというのは悪くない。素敵だ。

  それにしても、このコミュニケーション能力の重視は、一種の流行でもあるようです。
基本は人と人(生き物)のやりとりだから、今後ともコミュニケーション力が軽視されること
ないとしても、よりとされるスタイルや作法は、は刻々とかわっていくのでしょうね。
30年後にはどのようなコミュニケーション能力が要求されるのか...。
そのあたりには敏感にならねば。

 


[ 教員 ]
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※いろいろの手違いにより消してしまいましたが復旧いたしました。
 ごめいわくおかけしま↓(特に教員の方)

遅れてしまいましたがあけましておめでとうございます。
そしてお初にお目にかかります。
本日から執筆させていただく夜蜂です。

季節柄、ありとあらゆる行為に「初」がつきます。

初日の出とともに新年が明けたかと思うと初姿に身を包んで初詣。
初参りが終わって家に戻るや否や初刷りの新聞に目を通し
初売りに足を向けては初買いするというのは正月の一般的な風景の1つでしょう。

それにしても「初」ってのはやたら大事な感じがして好きです。
「初物」にしてもそうだし「初孫」にしてもやっぱりそうなんでしょう。
「初恋」「初婚」「初産」なんてのは個人差がありそうですね。
どれもこれもそれなりに大事なんでしょうけれど。
なんにせよ「初体験」というのは思い入れのあるものなんです、きっと。

なかでも「初(うい)」っていうのはいい言葉だと思います。
微妙な愛らしさを含んでて私は何だか好きです。
特に「初々しい」なんてのは独特の語感も加わって味わい深いです。

そんなこんなでこれといった内容のない初陣、初書き、夜蜂でした。

[ 学生 ]
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January 04, 2005

「お正月」、あるいは「元旦」について

気がついたら、1月4日。おしごとです。

 1月1日という日は、特別な日のようで、特別な日ではないようで、
やっぱり特別な日のようで、たいへん複雑である。ではない?

 日本中にやはり独特の雰囲気が漂っているような気がして
しょうがない。
 東京で迎える正月、岩手で迎える正月、秋田で迎える正月、
それぞれまったく違うのだけれど、そこには何かしら共通に感じら
れる「何か」がある。これってなんなのだろう・・・。
 
 テレビや新聞、といったメディアがもたらす情報によって作り出される
統一感。これは間違いなくあるだろう。けれども、それだけではきっとない。

 一つの可能性は、私自身がもっている「正月」という概念のせいだということ。
この概念はどこへでもいっしょに着いてくる。そして、私が風景をみたり、音をき
いたり、何か食べたりするときに、その概念に味付けされてしまうのだ。
たから、お正月という「何か」はいつも環境の中に見つかる。

 ん?となると、ヨーロッパにいようと、ハワイにいようと、誰と正月を迎えようと、
一人で正月を迎えようと、そこにはやはりなんとなく同じようなお正月があること
になる。

 これって実証あるいは反証が可能ですね。
でもアフリカにいたら、やっぱりちょっと違うような・・・。

 んー。となると、こうした一人一人の「お正月」は、
多くの日本人にとって同じようなものであり、だから日本にいる限りにおいて、
「何か」がとても強調されて感じられるということかしら。
(みんながそのつもりになって迎える「お正月」。)
 なんだ、結局、これがいわゆる「文化」か。当たり前だなあ。
当たり前でないとすると、その地域差が意外と少ないのかも
しれないということ。いつころからなんだろう?

と、こころにうつりゆくよしなしごとでありました。

さて、2005年。どんな1年になるだろうか。

とにもかくにもよろしくお願いいたします。

----
ところで、忘れないうちに。
紅白における藤本美貴の一連の振舞いはなかなかよかった。
ふぁんになろうかしら。

(1/5にちょっとだけ書き換えました。よみにくかったから)

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