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February 24, 2005

3月4日

来週の金曜日、

研究室にAIBOがやってきます。
学生諸君10名くらいに、どっちの色がいいかアンケートしたところ、
わたしの押していたパールブラックではなく、パールホワイト1匹。

わくわく。

わくわく。

[ 教員 ]
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投稿者 53 : 07:41 PM | コメント (1)

February 19, 2005

吾輩はオオトリサマである

ふと思った。
もし「吾輩は猫である」の冒頭部の二文めに、「まだ」がなかったら、
この作品の評価は少し違ったものになったのではないか?

もちろん、作品の評価は冒頭部だけで決まるものではないから、
作品全体としての評価に決定的な違いはなかったかもしれない。

でも、もし「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」
ではなく、「吾輩は猫である。名前は無い。」であったとしたら、
印象は大きく異なってくるし、その印象の違いは、
この作品の愛され方にちょっと関係があるように思われる。
名前は「まだ」ないのだ。

そしてこの違いには、何か、宮崎アニメのいくつかのキャラクターに
通じるものを感じてしまう。たとえば、「千と千尋」の「オオトリサマ」に近いものを。

このニュアンスをさらにデフォルメし単純化すると、
昨今何かと流行するカワイイもの系に通じてくるのだろう。
(このプロセスでおちてしまったものもあるように思うが。)

このニュアンスとは?
ことばで表現しようとしてみたけれど、なんか
陳腐になってしまうのでやめておきます。
でも、もしかしたら、これは現代、
日本で理想とされているライフスタイルの一つと
関連しているものなのかもしれない。
いや、「吾輩は猫である」の書かれた時代を考えれば、それは
何も現代だけではなく、意外と昔からずっと続いてきたものなのか。

あ、そういれば、「これ」は、C3POやR2D2にもちょっとありますね。

[ 教員 ]
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February 16, 2005

とてつもなく考えた

A君がB君に「ばーか」と言った。

「ばーか」と言われ憤懣やるかたないB君。

反撃の言葉はやはりコレ!
「ばーかって言ったやつがばーか!!」

小学生の頃、結構多くの人が口にした言葉ではないだろうか。

今日、このやり取りを僕が友人とやっていて気がついた。

「はっ!結局『ばーかって言ったやつがばーか』って言ったやつもばーかなんだ!!」と。

さきほど例に挙げた話に戻ると、B君の言葉はA君に対してダメージを与えるだけではなく、
B君自身にもダメージを与えている。だって「ばーか」って言っているから。

こう考えてみると、終わりなきバカ・シンドロームを
子どもの頃は無邪気に繰り返していたことが分かる。

バカイズスペシャル!バカイズグレート!!

しかし何よりものバカは、こんなことを真剣に考えている僕自身に他ならない。
困ったもんだ。

[ 学生 ]
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投稿者 たて金 : 01:38 AM | コメント (0) | トラックバック

復習

私の書いた昔の文章、ちょっと読み直しておりました。

なるしすとなもんで、自分で読んで面白いなと思うものも意外とあった。
しかし、きっと他の人にとっては、ほとんど面白くはないのだろうね。
過去の写真や思い出が、当人にとってはなつかして楽しくても、
他の人にとってはまあ、よくわからないのと同じだ。

いつまで書き続けるのだろ、私。
30年続いたらすごいと思わない?
あり得ん。


それにしても毎回、これを読んでくれてる人、どのくらいいるのかしら。

ほら、そこのあなた、あんまり無駄なことに時間費やさず、勉強でもしなさい!

ほら、そこの私、あんまりくだらん文章ばっか書いてないで、はよう寝なさい!

[ 教員 ]
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February 14, 2005

となりの・・・

 本当にきついときこそ、「論理的に考える」という方法が役にたつと思う。

 私が今とりうるオプションには何があって、そのうちどれを選択すると、
どのような展開と可能性とリスクと希望とデメリットとメリットと困難と楽しみ・・・
があるのかをじっくりと想像する。そしてその中からどれを選択するのか心を決める。

 つらいときは、どの選択肢もけっして気楽なものではないだろうし、
それがベストな選択かどうか自信をもてないのが普通かもしれない。
けれど、とにかく冷静に感情に流されず論理的に考え、判断し、そして実践するのだ。

 ときどき私が思い出すのは、大学のとき、ある先生が、パーティーのさなかに語ってくれたこと。
  「自分の歩んできた道、そして歩む道、それが一番よい道なのです。」
(もしかしたら、違う内容だったかもしれないけれど、 わたしの記憶の中ではだい
たいこんな感じで残っています。この言葉、難しい言葉で、よく考えなくてはいけ
ないのだろうけれど、すくなくともある前提のものとでは信じたほうがよいのかもし
れないなと思います。)
 
 でも、考えることもできないほど疲れたら、いや考えることができなくなりそうなほど
疲れそうな予感がしたら(←ここ重要)、思考はスパッとやめなければならい。

 そして、お酒をすこし飲んで、「トトロ」のことを考えながら、できるだけゆっくりねよう。

 「できるだけ休む」ことは、とにかく重要なのだ。

 (またおんなじような話で、「くどいなぁ」という人もいるかもしれません。 
  まあ、ひきだしがあさいもんで。 )

(タイトル等、その後、一部修正しました。)

[ 教員 ]
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February 12, 2005

気になる番組 −1−

つい今、ETV特集を見終わった。
興奮した。

川崎和夫さんもすごいが、生田幸士さんはやはり強者である。
研究者としてすごいなぁとおもっていたが、教育者としても一流なのだろう。「創造性教育」。

私はどのようにしたいのか?
大学は単なる知識・表面的な技術を教えるところではないのは明らかである。
では、大学という場所において、いったいどういう力を私は提供できるのか?

イメージはある。
しかし、まだ少しあいまいな点がある。
もっとつめなければ。
それは結局自分のもっとも得意なことを見極めることでもある。

そして、方法も、常にversion upしなければならない。

[ 教員 ]
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February 09, 2005

日曜日

昨日、今日と暖かい日が続きました。
この時期の暖かい日は、なぜか少し切ない感じがしますね。

このあいだの日曜日は、何にも考えずにすごした。

12時ごろまで寝ていて、昼はお気に入りのラーメン屋にいき、
その後マッサージ屋さんで1時間弱(最高)。
帰ってきて、「あずみ」の残していた半分を鑑賞、
その後、笑点、ちびまるこ、サザエさんと日本的日曜日のプロトタイプを制覇し、
バスにのって大通り、「オーシャンズ12」鑑賞、
軽くTぁーりーで飲んで帰るという贅沢ぶりでした。

「オーシャンズ11」もそうだったけれど、とくに映画史上には残らない
作品だとは思いますが、何も考えないで見る分には爽快そのもの。
「あまりしゃべらなくてもお互いに分かり合える仲間たち」というパターンで、
きわめてハリウッド的です。
典型的なものは典型的であるほどいいと思う。
寅さんみたいにね。
ヘンにひねったりしてはしてはいけないのだ。

しかし、ジョージ・クルーニーとブラッド・ピットは相変わらず美しい。
前作では、最後の場面でハンバーガーを食べるブラッド・ピットをみて、
ハンバーガーはああいう風にたべなくてはならぬのだということを学びました。
しかし、残念ながら私がやってもバカみたいにしかならない。


んで、あんまり休みすぎたもんで、今週はいまだ調子がでません。
かえってしんどい感じがするのは気のせいかしら。
なんか反応が鈍かったりするのはそのせいだと思います。


まずはお礼まで。

(一部編集しました。)

[ 教員 ]
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February 07, 2005

相手を思う

随分と長い間ご無沙汰していました。

卒論も提出し、これからは残りの学生生活をお金と時間が許す限り、
日々短距離走者のような気持ちで楽しむ所存です。

今日のテーマは「相手を思う」。
みなさんは高校生の時に倫理の時間に、キリストと孔子、どちらに賛同する?
といった話をされた覚えがないだろうか。

キリストは「自分がされてうれしいと思うことを、相手にもしてあげなさい」と説いた。
対して、孔子は「自分がされて嫌なことは、相手にもしてはいけない」と説いた。

今日まで、そしてこれからも僕は孔子派である。
うれしいと思うことは、人それぞれ違うのではないだろうか?

趣味がいい例だ。「僕はプロレスが大好きだ!だから愛しのあの娘に
アントニオ猪木の詩集『馬鹿になれ』を贈ろう!!」なんてことになった場合、
稀有な女性は喜ぶだろうけど、まずギャグととられるか、
「馬鹿にしてんの?!」と怒られてしまうこと請け合いだろう。
道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ!といった慰めの言葉を贈る。

おそらく、キリストは直接的にこう述べたわけではないのだろうが、
思想として、価値観としてこのように思っていたことが
「自分がされてうれしいと思うことを、相手にもしてあげなさい」
という端的な言葉で表されているのだろう。
何が気にかかるって、「相手の立場に立っていない」ことが気にかかるのだ。

その点、孔子の教えは相手の立場に立っている。すなわち、相手を思っている。
「自分がされて嫌なことは、相手にもしてはいけない」
相手を思わなければ、自分にとっては嫌なことでも相手には平気でするのではないだろうか。

空手をやっていた時のこと。
寸止めではなくフルコンタクトの流派だったから、
スパーリングや試合ではメット、グローブ、スネあて、急所ガードと
文字通りフル装備して本気で殴り合い、蹴り合う。

上段蹴りをモロに頭にくらい、脳震盪を起こした。
中段突きをどてっ腹にくらい、息ができなくなった。
急所を見事に蹴られ、この世のものとは思えない痛みに苦悶の表情を浮かべた、友達がいた。

痛みを知っているから、相手には優しくなれる。

昨今のニュースを見るにつけ、痛みを知らない人が増えたような気がしてならない。
体の痛み、心の痛み。
人がもう少し人を思えるようになったら
思った分、世の中は捨てたもんじゃなくなるのでは・・・。
どうだろう?


[ 学生 ]
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投稿者 たて金 : 01:56 AM | コメント (0) | トラックバック

February 06, 2005

レゾンデートル

ときどきとても不安になる。

私のような人間が、人にものを教えることなどできるのだろうか?
教えていて良いのだろうか?

たぶんだめなのだ。

社会的価値として、私が存在することのプラス面とマイナス面、どちらが
大きいのだろう。プラス面がないとはおもっていないが、マイナス面もまた大きい。

いや、社会的価値だけでなく、トータルとして、
私の存在が他の人に与えている影響の正の側面と負の側面、
後者の方がまさっているのではないか。
単純にプラスマイナスが定義できるものでもないとも思うが。

本当にえらい人ってときどきいます。
比較することすらできない。
あの人がいることで、すべてが変わる、
楽しい・うれしい・助かる・ありがたい、ということ。


でも基本的にわたしは無責任なのだ。
だからといって自分で「やめなくてはいけない」というところまでは悩まない。いや悩めない。
だめだ、だめだといってるそばで、「それでも自分はけっこう大丈夫じゃないか」と
にんまり思っている自分がいる。
結局すべてはポーズなのだ。


やれやれ。

まずはできることをやるまで。

(一部後に編集しました)

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